見返りを求めるものは愛ではない

 

見返りを求めるものは愛ではない。


 

こりゃ、当たり前の話ですわ。


 

自分が、相手に「してあげた」とか「与えた」と思う分の愛と同等レベル、
もしくはそれ以上を求めようとすることは、
単なるエネルギーのやり取り。


 

お金というエネルギーで、欲しい物や、
欲しいサービスを手に入れることと同じ。


 

そりゃ〜メッキが剥がれてきます。


 

エネルギーの交換が上手くいかなくなった時、
愛と信じていたものは、崩れ去ります。


 

 

人は、変わるもの。


 

愛は変わらないもの。


 

 

人って、自分が過去に経験した感情の痛みから、
それを癒すために、外側に何かを求めようとする
傾向があります。

 


 

それが、周囲の優しさであったり、
甘える対象であったり、薬や本であったり。

 


 

そして、外側に求め続けながら、
あれでもない、これでもない、
これはちょっといいかもしれない、
でも、そうでもなかった(笑)と彷徨い続けます。

依存先は、必ず崩れるようになっています。

だって、あなたの為にならないんですから


 

あの〜見るべきは、あなたの内側なんですがね。


 

内側を癒せれば、外に癒しを求めなくなります。


 

答えは、必ずあなたの中にあります。
それは、宇宙の摂理です。
だって、人間は、そういう風に創られているんですから。

 

 

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共感なんて幻想だ!

共感は、自分が過去に経験したことにしかできない。

また、一緒に泣くことも共感ではない。

自分の持つ感情の痛みが反応しただけ。

 

あなたは、他人ではない。


他人は、あなたではない。

 

だけど、深い部分では皆、繋がっている。

 

できることは、学びの邪魔をしない程度に、寄り添うことだけ。

 

人は、喜怒哀楽を経験するために生まれてきています。

 

なぜ?

 

喜怒哀楽の経験を通じて、
自分を知ることにより、相手も大切にできるから。


経験した喜怒哀楽は、相手の存在をあるがままに
受け入れることができる為の土壌になります。


だから、何度も生まれ変わりながら、
すべての喜怒哀楽を経験するまで、
色んな人生設定の中で旅を続けるのです。


冷たさを経験したら、温かさがわかる。
不快さを経験したら、心地よさがわかる。
左を経験したら、右がわかる。


判断基準としての二元論は、片方を理解するための仕組みなのです。


両方を経験したら、統合され、二元論は卒業です。


そう!どんな時でも、
感情は選べるということに気づくのです。


そして、選んだ感情をありのままに受け入れ、
自分のプロセスや相手のプロセスを阻害しなくなります。
寄り添う相手も、喜怒哀楽の経験値を積んでいます。


それが分かれば、
共感は、相手を自分の思考に当てはめこんでいるだけ!ということに
気づくことでしょう。

 

 

 

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死に捉われたターミナルケア

 

人それぞれ、死生観は違う。
その人の死生観に合わせた死に方も良いと思います。
それぞれの宗教観に合わせても。
しかし、ここでは別の視点から、
ターミナルケアを書いてみたいと思う。


 

人は必ず死ぬ。
中には、死は怖くないという方もおられると思う。

 

そう、本当は死は怖くない。
姿形を変えるだけ。
肉体は、脱ぎ捨てても、魂は生き続ける。


 

そもそも論として、
私たちは、三次元の世界で肉体を通しての喜怒哀楽の
経験をしに来ています。


 

なぜ、死は怖いのか?
 
 

それは、、、死を学んでいないからです。
死は、元に居た場所への帰還であり、
旅行から帰った後の自宅のあの落ち着くような感覚なのです。


死だけではなく、経験した事のないことや、教えられていないことには
多くの人が、怖れや不安を抱くものです。
死だったら、尚更のことではないですか?


 

生まれ変わりの中で、みんな何回も死んだ経験があるのに、
なぜ、死は怖いものという信じ込みの概念に捉われようとするのですか?

その捉われた結果が今の社会ですよ。 

より命を大切にした社会になりましたか?

信じ込みという概念だからこそ、違う視点を選べるんです。


 

死への怖れが、戦争・経済、憎しみの報復に利用されてきたことを
歴史を振り返っても、まだ学ばないのですか?


 

私たちが、肉体を失っても、永遠の存在であると分かっていたとしたら、
戦争をしても無意味になります。

戦争経済という死を怖れさせての商売行為もできません。

争いにより、大事な魂まで奪われないんだということが

分かっているのですから。

 

死を利用されることもない。

このままだと死んだ後に、地獄に行くからこうしなさいと。

天国や、地獄は存在しません(笑)

元々、人に罪なんてないのですから。

罪があると決めたのは、人間なんですから。

その前に、罪を犯すように宇宙は人を創っていません。

善悪の概念もないので、罪もないのです。

罪という概念を、支配者が支配しやすいように信じ込まされてきただけです。 

 


 

さて、ターミナルケアに話題を戻します。


 

看護や介護に携わる方、また、そのご家族の方の事情は様々と思います。

しかし、自分の気持ちの納得のために、ケアをしているとしたら、
当人の生命の尊厳を踏みにじっていることになります。
自分の気持ちの納得のためにケアするから、
思い通りにいかないと、怒るのです。虐待になります。
私が、自分をこんなにまで犠牲にしてやってるのに、と。


 

はい、それは、相手のこと全く考えていませんから。


 

一番は、当人の死生観通りに、死という卒業式を
迎えられるのが良いかもしれませんが、
表現が不能な状態の方も多々おられると思います。
その方は、表現の不能を示すことにより、
ご自身の死に方を示しているのです。
表現をしないことも、表現ができないことも表現です。
音楽では、そのことが分かっても人では分からないのは
なぜですか?
静寂性でこそ、活きるものもある!


 

人は、人の死に方をコントロールできない。
例え、延命措置をしたとしても、
延命措置を施した結果の死期を当人が決めてきています。
それは、その状態での喜怒哀楽の経験するためです。

 

 

貧乏である、金持ちである、病気である、
そのことだけが喜怒哀楽ではありません。

 

 

死にかける、痰が詰まって苦しい、
そんなことも大切な人生の1ページです。

 

 

それが分かっていたとした、
なぜ、その経験を邪魔できようか?


 

その前に、その前に、、、、
死は、喜びなのです。


 

人類が生きていく中で、
なぜ、死は悲しいものという信じ込みに
私たちは従ってきたのだろうか?


 

従う理由や必要性はありますか?


 

死は、悲しむべきものとして、
亡くなった人が、あちらの世界に帰ることの邪魔になるような信じ込みに何の意味がある?
それが、いずれ死を迎えるであろう自分たちの未来の姿になって良いのですか?

生きている遺族はこちらで悲しんだり、亡くなった人は
行くべき場所に行けなくて苦しむ、、、。


 

お互いのためになりません。


 

死という概念を真実に変える必要がありそうです。
死は区切り。
区切りがなければ、
喜怒哀楽の経験に緩みができる。
つまり、適当な喜怒哀楽になる。


 

楽しむんだよ!
喜怒哀楽を。

 

 

必死に、泣き、笑いながら。

 

 

 

 

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みかんの大器!?

 

あれは、齢4歳の頃であっただろうか。
お正月前に、父の実家のコタツで
みかんを剥いていた。


 

そのみかんの中にちいさなちいさな一粒を
見つけ、大事に大事に撫でながら、
机の上で触って遊んでいたその時です。


 

父が、そのちいさなちいさないとおしい
みかんの小粒ちゃんを潰してしまったのです。


 

 

さ〜て、私にとっては一大事!
ちいさな小粒ちゃんは、無残な姿になりました。


 

 

こうなったら、立てこもるしかありません!


ということで、トイレに立てこもりました。


 

なぜに、わたしの小粒ちゃんを潰したのだ!        
ちいさなこころにおおきな怒りが溢れています。


 

祖母が、気にして、トイレのドアの外から
話しかけてきます。

 

 

「こうちゃん、今、小さな粒を探しているからね!
出ておいで」

 

 

私は、それでも、出て行きません。

 

 

さて、二時間ほど経ったでしょうか。

 

 

「小さな粒見つかったよ。出ておいで」

 

 

私は、トイレに立てこもることに
飽きたことということもあり、
渋々を装い、
そっとトイレの鍵を開け、
コタツに向いました。


 

そこで見せられた小粒は、、、
確かに多少は、小さいが
あの小粒ちゃんのような
小ささといとおしい感じがない!


 

がっかりして、うなだれていました。


 

しかし、机の上にある皮を剥かれて
丸裸になったみかんの山を見て、
努力と誠意を感じ、諦めたのでした。


 

家にあるすべてのみかんが
剥かれていました。
正月には、親戚もたくさん集まるということもあり、
本当に大量のみかんです。


八人兄弟×子供たち+その他親戚=大量消費の見込み

 

「缶詰工場でも開こうかな!」と思った位でした。

 

こうして、私は、怒りをトイレの水に流したのでした。
(トイレから出てるっちゅ〜ねん!)

 

 

 

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まっすぐまっすぐ

 

悔いのないように生きること、

それが自由なのです。

 

 

 

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